兎に書く

現役ライターたちによるノンジャンルブログ

「ホラー」ですか、いいえ「ほら」です。

どうでもいい男に言われた一言なんていちいち覚えていられない。

 

どうでもいいし、なんなら覚える必要もない。たかが記憶の数B(バイト)だと思うがそいつのために使うなんて勿体ない。数Bだって塵も積もればメガになりギガになりテラになる。ましてや人間の、しかもわたしの小さい脳みその容量を埋めるなんて至極容易い。次々と詰め込んでいては、すぐにデータ移行の通知が来る。わたしの脳みその容量がなくなる前にデリート作業をすべく、筆を執った。

 

平成の時代に出会った男の話をひとつ。

 

彼は、ジュノンボーイに応募したら一次選考ぐらいは通っちゃうのではないかと思える顔立ちだった。サブカルなレディにモテそうなので、今後「サブレくん」と呼ぶことにする。

 

出会いはふらっと行った演劇サークルの飲み会だった。当時は演劇というものにさほど関心はなく、わたしはタダ酒が飲めるという謳い文句につられた貧乏学生のうちの一人にすぎなかった。演劇サークルの飲み会ということで、自己紹介とともに好きな俳優の名をあげなければならなかった。そこでサブレくんとわたしは同じ回答をし、親近感が湧いたのだ。

 

西田敏行

 

どうやら過去のわたしは、奇跡や運命なんてものを軽々しく信じてしまう生き物だったようで。今となっては西田敏行が被ったくらいでなんとも思わないのだが、当時は自分と感性が似ているのだと彼のことをたまらなく愛おしく思えてしまった。

 

わたしはその場で交際を申し込んだ。この時点でレモンサワーを二杯飲んでいた。

 

恋のスタートというには、あまりにもお粗末だった。

こうしてわたしはサブレくんと付き合うことになった。西田敏行から始まる恋。

 

サブレくんは今どきの体育系学生で「出会った生き物みな感謝」といった感じに、とにかくキラキラしていて光属性の意識高い系だった。卑屈・ネクラ・自己肯定感が低めというひとりメンヘラ三銃士である闇属性なわたしとは正反対で、いまだにどうして付き合ってくれていたのかもわからない。

 

サブレくんと付き合い始めた時期、わたしはよく安居酒屋で飲んでいた。学生なんて一杯190円のハイボールを呑ませておけば、大概は上機嫌になるもので、この頃のわたしは湯水のようにバイト代を酒に費やしては 、反論されたらすぐに折れるような芸術論をひたすら語っていた。酒にも自分にも酔っていたのだ。ああ、若いって恐ろしい。

 

午後の授業が休講になった月曜日、今出川付近にある安居酒屋の個室でわたしとサブレくんは呑んでいた。月曜日から酒浸ることができるのも学生の特権である。ここが現実なのか夢なのかわからず、ふと気を抜いた瞬間、ジョッキを持つ手を放してしまった。酒が自分の膝に盛大に流れていく。これが夢ならよかったのだが、ジョッキのなかのハイボールの温度が我に返らせる。

 

酒を浴びるように呑みたいとは思っていたが、酒を浴びたいとは言っていない。幸いジョッキを破壊することなく、自分の服がビシャビシャになっただけで店側に損害もなかった。「もしかして出禁をくらうのでは」「代金を割り増しで請求されるかもしれない」「バイトを増やさないといけなくなるかも」。とめどなく流れる冷や汗と妄想。だがもうビシャビシャなわたしの体は、これが汗なのか酒なのか判断が追いついていなかった。赤いスカートから香っていたサボンの香りが一瞬にしてアルコール消毒液の香りに変わった。

 

何杯目か分からないハイボールを注文し、酒をこぼしてから数時間が経った。酒をこぼしたことで店側に後ろめたい思いがあったが、そんなことは次に飲んだラムネサワーの泡とともに消えていった。

 

酔いがまわりにまわって360度くらいまわったところで、対面にいたサブレくんがわたしの隣に座ってきた。サブレくんはスカート越しにわたしの太腿を撫で始め、あろうことか手をタイツのなかに侵入させようとしてきたのである。

 

当然先程酔って酒をこぼし、下半身は物理的にビシャビシャなのだが、サブレくんに対してわたしは性欲がまったく湧いていなかった。もちろん、いい雰囲気になったというわけでもない。議題は、バイト先で教授と出会った話や学部の先輩のパチンコの勝率についてだったのだが、興奮する要素がどこにあったのだろうか。玉の話だったからか。

 

急な奇行に驚き、黙っているとサブレくんはなにを勘違いしたのか、左手の進行速度を緩めなかった。むしろ加速した。わたしを恥じらっている乙女とでも思っているのだろうか。そもそも乙女はハイボールをジョッキで一気飲みなんかしない。体からスッとアルコールが抜けていくような感覚に陥り、わたしはひとり冷静になっていた。

 

「ほら」

 

なにが「ほら」なんだ。

 

「濡れてる」

 

それは物理的に濡れただけであって、お前のふるまいや言動に濡れたわけじゃない。

酔いを覚ませ。酒にも自分にも酔ってらっしゃる酔いを覚ませ。

 

こいつになんて言ってやろうか考えあぐねていると、それを恥じらっていると捉えたのか、サブレくんは再び攻撃を仕掛けてくる。

 

「ほら」

 

語彙力を鴨川にでも流してしまったのだろうか。

何を示したいのだろうか。アダルトビデオの見すぎなのではないか。

 

世の女性全員が、自分の状況をこと細かに説明してくれると思うなよ。苛立ちと切り抜け方が思いつかないわたしは、小さく舌打ちをした。サブレくんは聞こえなかったのか、細目をより細くさせて笑う。

 

「ほら」

 

三回目の「ほら」でわたしは面倒になり、トイレに行くと言ってその店を後にした。

それからサブレくんの口癖が「ほら」だと知ったのは二度体を重ねた後だった。

 

 

 

 

サブレくんの家からは如意ヶ岳が見れた。

五山送り火などで有名な山の一つだ。

 

わたしは山に書かれた大の文字を指さし「ほら」とだけつぶやいた。彼は笑ってわたしが何を言っているのか全部わかったような顔をしていた。

 

「ほら大きいね」なのか、「ほらきれいだね」なのか、「ほら大文字だよ」なのか。

 

本当のところはどれでもない。「大」の字に、もし右上や下に火がつき、点がついてしまったらどうなるのだろうか、などと考えていた。

 

サブレくんは「うんうん、見えるね」としか言わなかった。言葉少なに気持ちが伝わるなんて迷信で、相当訓練された関係じゃないと、何も分からないのだ。

 

そんなわたしはいまだに「ほら」の二文字を使うことが出来ずにいる。

 

<書いた人>

ウユニ塩子 / 芸大卒だけど絵は描いてない。文章を書いて生きていこうと思い立つが、現在ゲーム開発職。笑ってくれたら幸いです。